斋藤道三
斋藤道三(日语:齋藤 道三/さいとう どうさん Saitō Dōsan,约1494年—1556年5月28日),日本战国时期美浓国大名。幼名峰丸,曾为京都妙觉寺的僧侣,法号法莲坊,还俗后名为松波庄五郎(庄九郎),后成为卖油商人,改名为山崎屋庄五郎(庄九郎)。成为武士时先后侍奉长井长弘及土岐赖艺,改名为西村(勘九郎)正利。长井长弘被谋杀后,继承长井氏而改名为长井(新九郎)规秀。1538年继承绝嗣的斋藤氏,改名为斋藤(新九郎)利政。1542年、1552年斋藤道三两次流放土岐赖艺,夺取美浓一国。1554年,将家督让于长子斋藤义龙,剃发隐居称道三。但斋藤道三与斋藤义龙父子关系恶劣,双方于1556年在长良川开战,斋藤道三在女婿织田信长的援军尚未抵达前便战死。
斋藤道三 | |
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时代 | 战国时代 |
出生日期 | 约1494年[注 1] |
出生地点 | 山城国乙训郡 |
逝世日期 | 1556年5月28日 |
逝世地点 | 长良川 |
罗马字 | Saitō Dōsan |
幼名 | 峰丸 |
改名 | 法莲坊→松波庄五郎(庄九郎)→山崎屋庄五郎(庄九郎)→西村(勘九郎)正利→长井(新九郎)规秀→斋藤(新九郎)利政→斋藤道三 |
别名 | 讳:长龙 通称:新九郎、山城守、左近大夫 绰号:美浓的蝮蛇 |
戒名 | 圆觉院殿→翁道三日抬大居士神仪 |
墓所 | 常在寺(岐阜县岐阜市) 道三冢(岐阜县岐阜市) |
主君 | 长井长弘→土岐赖艺→土岐赖纯 |
氏族 | 西村氏→长井氏→斋藤氏 |
父母 | 父:长井新左卫门尉或松波基宗[注 2] |
兄弟 | 弟弟:长井道利[注 3] |
正室 | 小见之方 |
侧室 | 深芳野 |
子 | 斋藤义龙、斋藤孙四郎(龙重)、斋藤喜平次(龙定)、日饶、日觉、斋藤利尧、斋藤利治 |
女 | 女儿(姊小路赖纲正室)、女儿(土岐赖香之妻)、浓姬、女儿(土岐赖纯之妻)、女儿(斋藤利三正室)、女儿(稻叶贞通正室) |
养子 | 斋藤正义 |
日语写法 | |
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日语原文 | 齋藤 道三 |
假名 | さいとう どうさん |
平文式罗马字 | Saitō Dōsan |
斋藤道三绰号美浓的蝮蛇,[注 4]为人残忍无情。《信长公记》记载斋藤道三对犯有小罪的人处以车裂之刑,烹杀犯人时命其亲人亲自点火。[4]他的发迹与失落是日本战国时期下克上精神的完全体现,小说家司马辽太郎的《国盗物语》就是以斋藤道三的生平为蓝本而创作。
生平
编辑早年
编辑明应三年(1494年),斋藤道三出生于山城国乙训郡西冈,其父为松波基宗,是负责天皇皇宫的护卫的北面武士。道三幼名峰丸,从小长相美貌而且聪明伶俐。由于爆发应仁之乱而使松波基宗失去俸禄,道三于11岁被迫在京都妙觉寺出家,法名法莲坊。后还俗称松波庄五郎(庄九郎),又娶卖油商人奈良屋又兵卫的女儿,改名为山崎屋庄五郎(庄九郎)。据记载斋藤道三卖油手法纯熟,能将油通过一文钱的方孔注入容器中不使用漏斗而使油不洒出。长井长弘的家臣矢野五左卫门买油时惊异于道三娴熟的技巧,向他指出虽然他卖油的技术纯熟,但终究是商人的技能,如果能将这种技能注入到武艺上,那他就会成为出色的武士。道三于是弃商从武,熟练的掌握了枪的使用。
斋藤道三的师弟南阳坊是鹫林山常在寺的住持,亦是土岐氏重臣长井利隆的弟弟,经南阳坊的推荐,道三出仕于长井长弘。[1]在长井长弘的推荐下,大永三年(1523年),斋藤道三出仕美浓守护土岐赖艺。长井氏家老西村正元去世后,道三便继承西村氏,改名为西村(勘九郎)正利。大永五年(1525年),斋藤道三得到轻海西城作为居城。[2]
发迹
编辑当时的美浓国陷入长期战乱,前美浓守护土岐政房的嫡子土岐赖武是家督继承人,得到了守护代斋藤利良的支持,但土岐政房晚年宠爱次子土岐赖艺,他也得到了小守护代长井利隆的支持。土岐政房死后,两兄弟因为家督之位展开混战。第一次冲突发生于永正十四年(1517年),土岐赖武取得胜利,战败的土岐赖艺被驱逐至尾张国。次年,联络了斋藤彦四郎作为内应的土岐赖艺将土岐赖武驱逐至越前国,但土岐赖武是朝仓贞景的女婿,永正十六年(1519年),得到贞景之子朝仓孝景支持的赖武重新返回美浓。经过一段时间的稳定,直到大永五年(1525年),双方再次开战,长井长弘和斋藤道三夺取了美浓守护所福光馆和新任守护代斋藤利茂的居城稻叶山城。战争持续到大永七年(1527年),土岐赖艺接受斋藤道三的建议,派兵奇袭赖武的革手城,赖武战败。享禄三年(1530年),在美浓难以立足的土岐赖武再次流亡至越前国,土岐赖艺正式成为美浓守护,长井长弘成为守护代并掌握实权。享禄五年(1532年),斋藤道三娶明智光継之女小见之方为正室。而在1530年或1533年,长井长弘突然被刺客暗杀,事件的主谋就是斋藤道三。[注 5]随后他以同门重臣的身份继承长井氏,改名为长井(新九郎)规秀,成为稻叶山城城主。
战败的土岐赖武与其子土岐赖纯不甘心失败,伺机准备反攻。天文四年(1535年),土岐赖艺与得到朝仓氏、六角氏援助的土岐赖武、赖纯父子发生大规模冲突,战火遍及了美浓国全境。
天文七年(1538年),原守护代斋藤利良病死,无子嗣位,土岐赖艺命道三入继,改名为斋藤(新九郎)利政,成为新守护代。次年,道三对稻叶山城进行了大规模的扩建。[3]
争议
编辑1960年代在编纂《岐阜县史》的过程中发现了《六角承祯条书》,此书是近江国守护六角义贤写给家臣平井氏和蒲生氏的文书,其中记载了部分斋藤氏的事迹:
- 斋藤治部(义龙)的祖父新左卫门尉是京都妙觉寺的僧侣。
- 新左卫门尉姓西村,来到美浓仕于长井弥二郎(长井长弘)。
- 新左卫门尉逐渐发迹,遂以长井为姓。
- 义龙之父左近大夫(道三)的时代,杀害惣领、夺取诸职,以斋藤为姓。
- 道三与义龙断绝关系,义龙弑父。
自文书发现以来,过去被视为道三个人事迹的窃国行为,极有可能是长井新左卫门尉和道三父子两代所为。
窃国
编辑土岐赖武死后,[注 6]土岐赖纯于天文八年(1539年)与土岐赖艺达成和解。但在天文十一年(1542年),在斋藤道三的策划下,土岐赖纯的居城大桑城的两个支城祐向山城及别府城相继陷落,接着大桑城也落入土岐赖艺之手,土岐赖纯再次逃往越前国。土岐赖艺随后将居城从鹭山城迁往大桑城。[3]
土岐赖艺一度视斋藤道三为心腹,甚至在大永六年(1526年)将爱妾深芳野赏赐给道三。[2]但斋藤道三为了实现自己的窃国大业,于天文十年(1541年)毒杀赖艺之弟土岐赖满,导致两人之间直接对抗。在逐渐肃清土岐赖艺的宗族后,[5]天文十一年(1542年),斋藤道三出兵袭击土岐赖艺的居城大桑城,土岐赖艺与其次子土岐赖次被迫流亡至尾张投靠织田信秀,美浓落入斋藤道三之手。[注 7]
斋藤道三的窃国行为震惊了周边大名,他本人被冠以“美浓的蝮蛇”的绰号。朝仓孝景和织田信秀则分别拥立土岐赖纯和土岐赖艺进攻美浓,土岐赖纯占据北方城,土岐赖艺占据革手城。斋藤道三一方面展开防御,一方面使用外交手腕。天文十五年(1546年),土岐赖纯与斋藤道三在六角定赖的调解下,双方以土岐赖艺隐居,土岐赖纯接任美浓守护并迎娶道三的女儿为条件达成和解。[3]天文十六年(1547年),织田信秀和朝仓宗滴结盟对付斋藤道三,并且联手攻陷大垣城,之后率军包围稻叶山城,但是惨遭到道三的反击。在加纳口之战时,织田军惨遭大败,包括织田信秀的弟弟织田信康在内5000人战死。[注 8][6]同年,土岐赖纯突然死亡,幕后黑手为斋藤道三,使朝仓孝景失去了扶植的对象。天文十七年(1548年),斋藤道三将女儿浓姬嫁给织田信秀的嫡子织田信长,双方停战结盟,使土岐赖艺失去了后盾。天文廿一年(1552年),土岐赖艺再次被斋藤道三流放,被迫流亡于各国,斋藤道三彻底完成了窃国大业。[3]
盟友
编辑天文十七年(1548年),道三希望与织田信秀的关系得到缓和,便策划与其联姻达成和睦。道三将女儿浓姬嫁给其嫡子织田信长,双方停战结盟。
天文廿二年(1553年),道三突然决定与甫继承家督的信长于富田正德寺会面,并暗自计划设下鸿门宴,准备斩杀信长夺取尾张。道三命重臣率兵800在寺前列队,自己却躲在织田军必经之路的民宅中窥视信长。织田信长身穿一贯的奇装异服,梳着茶筅似的头发,半开着浴衣似的袖子,大小佩刀用稻草绳卷在腰间,腰上挂着许多小袋子与七八个葫芦,下身则穿着由半张虎皮与豹皮组合成的短裤裙,率领着700人的足轻、枪、弓和铁炮部队前来赴会。但在正式会面时,信长却身着端庄的礼服出现在道三面前,令他大为吃惊。宴会过后道三亲自送行,并对家臣猪子兵助说将来自己的孩子必定会系马于这个“傻瓜”的门前,成为他的属下。[7]
身亡
编辑天文廿三年(1554年),[注 9]斋藤道三将家督和稻叶山城让给长子斋藤义龙后在常在寺剃发出家,号“道三”,自己隐居于鹭山城。[注 10]义龙和道三之间关系险恶,传闻深芳野在土岐赖艺赐给道三之前已经怀有身孕,义龙一直怀疑自己是否为土岐氏一脉,[2]正德寺会面后斋藤道三的话更加深了二人的矛盾。[3]道三晚年偏爱次子孙四郎和三子喜平次,厌恶“愚蠢”的义龙。义龙遂决定先下手为强,发动兵变夺取家督。天文廿四年(1555年),义龙以病重为由派叔叔长井道利召弟弟孙四郎、喜平次到稻叶山城,趁二人酒醉时派日根野弘就将他们杀害。[9]义龙又集结17,500人的大军,以土岐氏正嫡的名义向道三宣战,而道三则在城下町放火,渡过长良川后在大桑城集结2500人与义龙对峙。[2][10]
双方对峙一年后,弘治二年(1556年),道三写下遗书,将美浓一国让与女婿信长,并要求信长出兵救援。5月28日,道三率兵与义龙决战于长良川,信长得讯后立即出兵营救。道三虽然击溃了义龙先锋竹腰道镇的进攻,但由于双方兵力相差悬殊,道三方迅速溃败。道三被义龙方小牧源太砍伤小腿后讨取首级,而怒于被小牧源太抢走功劳的长井忠左卫门则将道三的鼻子削走。后义龙出家法名“饭贺”——取自唐朝的故事中弑父并砍下父亲首级的人物。[11]
登场作品
编辑- 小说
- 枭雄(筑摩书房、坂口安吾著)
- 战国史记 斋藤道三(中央公论新社、中山义秀著)
- 国盗物语(新潮社、司马辽太郎著)
- 篡夺者(学研、岩井三四二著)
- 斋藤道三・兵之诡道(学研、岩井三四二著)
- 魔虫传(光文社、朝松健著)
- 两个道三(新潮社、宫本昌孝著)
- 斋藤道三-美浓战国传(FA出版、岸宏子著)
- 斋藤道三―信长敬畏的战国枭雄(PHP研究所、高桥和岛著)
- 宿曜师 斋藤道三(东京新闻出版局、胜见秀雄著)
- 影视作品
- 织田信长(1940年、日活、演:高木永二)
- 风云儿 织田信长(1959年、东映、演:进藤英太郎)
- 德川家康(1964年、NET、演:山形勲)
- 太阁记(1965年、NHK大河剧、演:上田吉二郎)
- 天与地(1969年、NHK大河剧、演:中村翫右卫门)
- 青春太阁记(1970年、NTV、演:远藤辰雄)
- 国盗物语(1973年、NHK大河剧、演:平干二朗)
- 织田信长(1989年、TBS、演:松方弘树)
- 战国乱世的暴君 斋藤道三 夺取天下的怒涛(1991年、ANB、演:松平健)
- 信长KING OF ZIPANGU(1992年、NHK大河剧、演:芦田伸介)
- 织田信长(1994年、TX、演:津川雅彦)
- 丰臣秀吉 获取天下!(1995年、TX、演:渡边哲)
- 秀吉(1996年、NHK大河剧、演:金田龙之介)
- 织田信长 取得天下的傻瓜(1998年、TBS、演:西田敏行)
- 国盗物语(2005年、TX、演:北大路欣也)
- 战国自卫队1549(2005年、东宝、演:伊武雅刀)
- 太阁记 获取天下的男人・秀吉(2006年、EX、演:白井滋郎)
- 浓姬(2013年、EX、演:里见浩太朗)
- 信长协奏曲(2014年、CX、演:西田敏行)
- 麒麟来了(2020年、NHK大河剧、演:本木雅弘)
- 桶狭间〜织田信长 霸王的诞生〜(2021年、CX、演:佐藤浩市)
- THE LEGEND & BUTTERFLY(2023年、东映、演:北大路欣也)
- 漫画
- 游戏
注释
编辑- ^ 《美浓国诸旧记》记载为1504年。[1]
- ^ 《美浓国杂事记·长井世系图》中记载为长井利隆之子,这种观点不被认可。
- ^ 《美浓国诸旧记》和《岐阜军记·斋藤世系图》中记载为长井长弘之子,[2]而《美浓国杂事记·长井世系图》中记载为长井利隆之子,斋藤道三之弟。
- ^ 蝮蛇是卵胎生动物,小蛇在母蛇的体内破壳孵化,通过泄殖肛孔破膜而出,古人误以为蝮蛇是小蛇咬破了母蛇的肚子出生,用来比喻斋藤道三谋害对自己有恩的主君,篡夺主家。[3]
- ^ 一说1533年斋藤道三派刺客谋杀长井利安,一种观点认为长井利安和长井长弘为同一人。
- ^ 土岐赖武的事迹自1536年在史料中消失,据推测他死于这段时间内,一说被斋藤道三派刺客谋杀。
- ^ 一说斋藤道士流放了土岐赖次,将土岐赖艺立为傀儡守护。
- ^ 一说加纳口之战发生于天文十三年(1544年),而织田方的战死数有500-600、2000人的说法。
- ^ 一说为1548年。[2]
- ^ 江户时代的《军记物》记载斋藤道三将家督和稻叶山城让与斋藤义龙后隐居于鹭山城,而《信长公记》则记载为斋藤道三与孙四郎、喜平次居住于稻叶山城。[8]
参考资料
编辑- ^ 1.0 1.1 《美浓国诸旧记·卷之一·土岐氏零落、斎藤道三の事》。
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 《美浓国诸旧记·卷之二·土岐赖艺、松波庄五郎を取立つる事》。
- ^ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 陈杰. 《日本战国史:美浓的“蝮蛇”》. 陕西人民出版社. 2009年12月. ISBN 9787224091113.
- ^ 《信长公记·首巻中·道三》:斎藤氏を名乘った山城道三は微罪の者でも牛裂の刑に処し、また釜茹で际には火を罪人の亲类縁者に焚かせるなど、まことに厳しい仕置を行った。
- ^ 《信长公记·首巻中·道三》:しかし长井の魔手はその土岐家にも及んだ。长井はまず土岐赖芸殿の子息のうち兄の次郎殿を婿とし、油断したところを毒杀した。次いで稲叶山を居城として山下に弟の八郎殿を住まわせ、鹰狩・乘马その他一切を禁じて软禁した。八郎殿はたまらず尾张へ亡命しようとしたが、露见して杀された。
- ^ 《信长公记·首巻上·美浓崩れ》:天文16(1547)年の信秀殿は、先月には国中の兵を语らって美浓へ出阵したと思うと…尾张势も奋戦したが、支えきることができずに総崩れとなり、御舎弟の信康殿をはじめ五千もの勇士が讨死した。
- ^ 见《信长公记·首巻上·正徳寺の会见》。
- ^ 《信长公记·首巻中·悲喜剧长良川》:道三には长男新九郎义龙・次男孙四郎・三男喜平次の三人の子がおり、いずれも稲叶山城に住んでいた。
- ^ 《信长公记·首巻中·悲喜剧长良川》:义龙を愚人とみて弟二人を爱し、特に三男の喜平次の官を进めて一色右兵卫太辅と名乘らせたのである。当然ながら弟二人は奢り、义龙を軽んじた。义龙は心中に意を含みながら、天文廿四年(1555年)年10月、病と称して奥に引きこもった。22日になって、道三は山下の别邸に下りた。ここで义龙が动いた。义龙は伯父の长井隼人正道利を弟二人のもとへ使者に遣わし、“义龙重病にして今はただ时を待つのみ。ついては、向后の事につき相谈したき仪これあり。入来されたし”と申し送った。长井は谋を胸に秘め、二人の甥とともに义龙のもとへ参向した。対面の前に、次室で刀を外したのが策谋のたねであった。伯父が脱刀したのを见、甥の二人もその场に刀を置いて対面の席についた。そうして杯を重ねて酔わせたところを日根野备中弘就に袭わせたのである。日根野は自慢の大刀を打ち振り、难なく二人を杀害した。
- ^ 《信长公记·首巻中·悲喜剧长良川》:义龙は事の颠末をみずから道三に通达した。道三は仰天し、いそぎ兵を立てて町を焼き、火烟にまぎれて城下を退去した。そして长良川を越えて山県郡の大桑城に入り、息子と対峙した。
- ^ 《信长公记·首巻中·悲喜剧长良川》:弘治二年(1556年)4月18日、道三は鹭山の高所に登って阵を构えた。信长公も盟约によって出兵し…20日になって、义龙は军势を进発させた。道三も鹭山を降りて长良川まで进军し、ここで両者が激突した。合戦は义龙势の先手竹腰道尘の突撃で始まった。竹腰势は密集队形をとって长良川を押し渡り、道三の本阵へ切りかかった。激戦となったが、道三は巧みな指挥で竹腰势を溃走させ、道尘の首をあげた…戦は混戦となった。无势の道三势はよく戦ったが、次第に兵も减り、ついに道三の前まで义龙势が押し寄せてきた。道三旗本势が崩れる中、寄せ手の长井忠左卫门が突进して道三に组み付いた。生け捕りにして义龙の前へ引き据えようとしたのである。ところが、もみ合っていたところへ小真木源太という侍が走り寄ってきて道三の胫を薙ぎ、押し伏せて首をかき切ってしまった。功を夺われた长井は愤激したが、ともかくも最初に组み付いた证拠にと道三の首から鼻を削いで懐に収め、その场を退いた…事実こののち义龙は得度し、法名を饭贺とした。饭贺とは唐の故事にある名で、义龙と同じく父亲の首を切った人物の名であった。