111号舰
111号舰(日语:ひゃくじゅういちごうかん)是大日本帝国海军大和级战舰计划中的四号舰,不过后来于1942年3月间中止建造,已建成的舰体亦遭拆解[1][2]。本舰原先的预定舰名可能为“纪伊”(きい)[2]。
111号舰 ひゃくじゅういちごうかん | |
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概观 | |
拥有国 | 大日本帝国 |
营运者 | 大日本帝国海军 |
舰级 | 大和级战舰 |
制造厂 | 吴海军工厂 |
动工 | 1940年11月7日 |
结局 | 1942年3月中止建造 |
技术数据 | |
排水量 | 标准:64,000吨 公试:68,200吨 满载:71,100吨 |
全长 | 263米 |
全宽 | 38.9米 |
吃水 | 10.4米 |
动力 | 12×舰本式蒸气发动机 4座4轴推进 |
功率 | 150,000匹马力 |
最高速度 | 27节 |
续航距离 | 以16节速度航行时为7,200海里(13,330千米;8,290英里) |
乘员 | 约2500人 |
武器装备 |
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装甲 |
建造
编辑限制各国海军军备的《华盛顿海军条约》于1936年间失效,大日本帝国海军于是积极研发新型战舰以对抗以英国与美国为首的西方海军,并提出了“A-140计划”,准备舰造4艘新式战舰。1937年11月4日,日本海军在《丸三计划》的规划下于吴海军工厂起造1号新战舰,而该艘战舰即日后闻名于世的大和号战舰[3];翌年3月29日复于三菱重工业长崎造船所起造2号新战舰,即日后的武藏号战舰。1940年8月8日,大和号战舰下水[4]。同年5月4日(一说4月7日),日本海军又在《丸四计划》[5]的基础上于横须贺海军工厂起造110号舰(即信浓号战舰,后改装为航空母舰)[6][7]。大和号战舰下水后约三个月左右,大和级战舰的四号舰111号舰亦于1940年11月7日在吴海军工厂动工[8][7]。
本舰的基本性能与大和号及武藏号相同,但日本海军已在信浓号与本舰的建造过程中尝试解决各种设计上的瑕疵。本舰原先预定搭载九八式100毫米高射炮,但可能由于预算上的限制而取消[9]。
建造中止
编辑111号舰的建造过程于1941年3月间尚称平顺,不仅于舷侧的双层装甲已完成安装,舰艏与舰艉的装甲防护亦均完工[1]。太平洋战争爆发前,大日本帝国海军建造轻型舰艇的时间远比建造大型战舰的时间要久,而且军方的主要资源均集中于战舰的损伤修补、升级与建造上;珍珠港事变与马来亚海战后,帝国海军体认到航空武力的重要性,从而中止了110号舰(即信浓号)的建造,而本舰亦自那时起便注定将永远无法建造完成[10]。
1942年6月上旬爆发的中途岛战役使日本海军一夕间损失赤城号、加贺号、苍龙号及飞龙号等四艘航空母舰,横须贺海军工厂于是将110号舰改装为航空母舰[10]。另一方面,吴海军工厂所分配到的优先工程项目是建造2艘改大凤级航空母舰与5艘改飞龙级航空母舰,111号舰的建造遂受搁置[1]。吴海军工厂不久后即着手拆除111号舰,并将其上的钢材、装甲与其他可用资源挪作他用,部分舰体甚至当作浮桥使用[11]。原先规划于111号舰后建造的超大和级战舰亦于同一时间遭到取消[12]。
后续
编辑本舰拆除后,其剩余资源用于其他舰艇的修复或建造上。其中一部分钢材则挪用到信浓号上[1]。此外,伊势级战舰的两艘舰(伊势号与日向号)于1943年改装为航空战舰时亦使用了部分111号舰的资源。另一部分的钢材则用于改装将德国商船改装为神鹰号航空母舰的工程上[13]。
舰名
编辑本舰的正式名称有多种说法,然而由于史料阙如,至今仍无法证实。不过可以肯定的是,本舰的舰名将会遵循大和级战舰以古代令制国国名命名的惯例。多数学者认为本舰将会命名为“纪伊号战舰”(きい),而战后日本复员厅内所保存的帝国海军资料亦肯定此种说法[2]。
大众文化
编辑注记
编辑- ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 #庭田、建艦秘話54-55頁『2.第百十一号艦について』
- ^ 2.0 2.1 2.2 #海軍軍備(3)p.10『三.戰艦信濃及紀伊の建造工事中止 (マル4)計畫に基く戰艦信濃及紀伊は夫々横須賀及呉海軍工廠に於て起工(紀伊は予定より六ヶ月繰上げ)し二重底迄の船殻工事を終つた時期に主として甲鈑の製造遅延の為一時建造工事を中止するに至つたが後日開戰後の軍備戰備計畫の大改變に基き信濃は航空母艦として再現せしめ得たが紀伊は遂に解体することとなつたものである。』
- ^ #庭田、建艦秘話53頁『(ロ)工事概括予定と実際』
- ^ #庭田、建艦秘話50頁
- ^ #海軍軍備(2)pp.22-24『第三節 昭和十四年度海軍軍備充實計畫(通稱、第四次補充計畫)』
- ^ #海軍軍備(2)p.28『(丸4)計画艦艇工事経過』
- ^ 7.0 7.1 #海軍軍備(4)p.13『一一〇號艦は予定通り昭和十五年四月七日、一一一號艦は予定を半年繰上げ同年十一月七日起工され、大和型の第三、第四番大戰艦の工事がスタートした』
- ^ #海軍軍備(2)p.28『(丸4)計画艦艇工事経過』-『戰艦
- ^ #海軍軍備(2)p.25『(艦種)戰艦
- ^ 10.0 10.1 #海軍軍備(4)p.13『呉工廠の一一一號艦は一一〇號艦に比し約半年遅れて起工しているので解体可能(所要工數數千)とされたので遂に昭和十七年初に工事中止が確定された。 斯くて兩艦共進水の偉容さえ観ることなく、次項に述べるミツドウエー海戰の結果もあり、一一〇號艦は航空母艦として再出發、一一一號艦は解体することに決定された。』
- ^ #庭田、建艦秘話55頁『(略)水防だけを完全のものとした後に5箇のポンツーンに切断されて出渠し、浮桟橋代用として戦時中諸処に使用せられて最後を遂げた次第でしたが、防禦甲鉄を張った床面は丁度碁盤の上の碁石のように大きな鋲頭が奇麗に列んでおったのは今でも印象に残っています。』
- ^ #海軍軍備(3)p.7『一.戰艦 近い将來戰艦比率は對米五割又は○以下になることが發見されたので量的保持を一時断念し、武蔵、大和の如き超巨大戰艦を出現せしめ個艦威力の隔絶を以て對抗することとする。斯くて(マル3)(マル4)計畫に於て大和型戰艦四隻の建造を進めたばかりでなく更に次期軍備の(マル5)及(マル6)計畫に於ては夫々三隻及四隻計七隻の追加充費を腹案した。(駐)但し情勢の急變に對處し(マル4)以後の戰艦は建造中止又は未起工となり信濃のみが後日空母として竣工した外遂に實現の運びとならなかつた。』
- ^ #日本空母物語314-316頁『(2)改造要領』
参考资料
编辑- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 第二復員局残務處理部. 海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の二((3)及び(4)計画附支那事変に伴う海軍軍備) info:ndljp/pid/8815710. 1950.
- 第二復員局残務處理部. 海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の三(開戦直前の応急軍備、戦備と(5)及び(6)計画の概要) info:ndljp/pid/8815683. 1951. }}
- 第二復員局残務處理部. 海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の四(開戦から改(5)計画発足まで) info:ndljp/pid/8815691. 1951.
- コーエー 『未完成艦名鑑』
- 学研ホールディングス
- 学研 『日本の戦艦パーフェクトガイド』
- 学研 『日本の空母パーフェクトガイド』
- {{lang|ja|大日本絵画 ‘日本海军の航空母舰 その生い立ちと戦历’
- 庭田尚三. 3.戦艦の巻. 元海軍技術中将 庭田尚三述 建艦秘話. 船舶技術協会. 1965. 庭田は昭和14年11月から呉工廠造船部長。大和・111号艦の進水・艤装を担当。
- 福井静夫. 福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語. 光人社. 1996. ISBN 4-7698-0655-8.